臨済宗本鏡山
常福寺

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平成15年4月5日開催・講演会記

 

平成15年4月5日開催

目次

 

山野井泰史さんの講演

 

 

白石かずこさんの講演

 

 

上田紀行さんの講演

 

 

パネルディスカッション

 

山野井泰史さんの講演

物心ついた頃から冒険に大変興味があり、たまたま見たテレビのドラマでヨーロッパアルプスを舞台に氷河や岸壁を登る場面を見て衝撃を受け、将来ずっとこれをやっていきたいと、一目惚れに近い状態だった。それ以来25年近く怪我や病気以外は常に登っている。
初めて登ったのは小5の時で、日本で2番目に高い北岳という南アルプスの山に一人で登った。台風が来ており景色は一つも見えなくて、それでも山頂に着いた時は特別な感動があったわけではないが、僕にとても合った場所だなと感じた。山に来てよかった、すばらしい世界だと思った。
中3の時図書館に行くと言って家を出て、近くの山で墜落して全身打撲で血まみれになって帰ったら、さすが親父が怒って山をやめろと言った。その当時から山をとられる位なら死んだ方がいいと思った。それから2~3年は反対したが、それほど情熱があるならとそれ以来止めることはなかった。今は応援してくれている。
高1の時谷川岳に一人で登った。谷川岳は世界で最も多くの人が亡くなっている山だが、親にも友人にも言わなかった。死ぬかもしれないと漠然と感じていた。週末になると恐怖がわいてきて、もしかして戻ってこないかもしれないと、家の中を片付けた。だけど毎週のように行った覚えがある。
旅行と同じで一番楽しいのは計画段階だ。わくわくする。いろいろなイメージをする。でも登る前は全身恐怖で、できれば行きたくない、明日雪になってくれればいいという感じだが、追われるように上に向かっていくとだんだん恐怖心がなくなりリラックスして、山頂に近づくとやっぱり僕の居場所だという感覚になる。本能でしょうか。子どもが木に登るように、高い所から眺めるのは気分いいのだ。
一人で行くことが多い。時々外国の人と組んだり、友人、妻と登るが、計画段階でまず一人でできるかどうか考える。昔から物事を決める時は一人で解決してきた。
山頂近くになるととても気分が良くなってくる。8千近くになると酸素が3分の1になり気温マイナス30度風速30と厳しい状況だが僕にはとても気持ち良い世界だ。それが第3者がいることでどうしても会話がもたれる。最高の気分の時を遮断されたり侵されるようでできることなら一人でその状況を味わっていたい。実際向こうの山で小さな石が欠けても目に入るし、何もかも感じられる。
4年前妻と行った8千の山で雪崩に遭った。上でがーんという音がして、数秒後すごい衝撃で二人とも飛ばされた。300~400落ちながらその時はあまり怖くなく、こうやってクライマーは死んでいくのだなと漠然と思った。2m位深い所にもぐって、手足は動かず口の中には氷が詰まって数分で酸欠になり死ぬ状況だった。その時すごい恐怖だった。諦めていない人間にとって死ぬことはとても怖いことだった。
凍傷で右足の指は全部ない。今までより力が加わらないからレベルが下がることに、アスリートとして我慢できるかと言うと難しい。でも心の底から山登りが好きだから、将来もしかしたらハイキングしかできないかもしれないが一生登り続けたい。小5から始め、1日たりとも山を忘れた日は無い。常に山を追いかけている。それはすなわち1日たりとも死を考えない日は無いということだ。皆さんも1日1回は考えたらどうでしょうか。 (おわり)

山野井泰史(やまのいやすし):登山家、37歳(当時)。中学3年で日本登攀クラブ入会。
高所における高難度のクライミング実績、またソロクライミング技術は、国内外から世界屈指のクライマーと評価。
岸壁やヒマラヤ高峰の先鋭的な登攀で世界的に知られる。登り方はアルパインスタイルと言う短期速攻。高所でも酸素を使わない。
単独行が多いのは「同行者がいるときより自分の能力を正確に理解できるから」と語る。87年ヨセミテの難ルート、ラーキング・フィア単独第3登。88年カナダ・バフィン島トール西壁単独初登。
90年南米パタゴニアのフィッツロイ南西岩崚を冬季単独登頂。94年ネパールのチョー・オユー(8201m)に南西壁新ルートから単独登頂。00年世界第2の高峰K2に南南東稜から単独登頂と輝かしい実績を残す。
注目に値する登山を収録する米国山岳会年報の記録欄で常連。02年3月には英国山岳会のアルパインスタイル・シンポジウムに招かれ公演。
02年秋ヒマラヤのギャチュンカン(7952m)に北壁から登頂。下山時、悪天候に見舞われ、途中で合流した妙子さんと言語を絶する苦闘の末、生還。
02年度朝日スポーツ賞、02年度植村直樹賞受賞。

白石かずこさんの講演

私は古希を迎え、今93歳の母の介護をしています。去年私の大事な女友達3人が亡くなりました。尊敬する深沢七郎さん、森茉莉さんとは仲良くお付き合いさせて頂きました。
深沢さんは小説「楢山節考」がハンガリーの人達に喜ばれ、家も土地も用意するからいらっしゃいという話があり、身辺整理して行こうとした時に心臓病がわかり、行けなくなったことがありました。床に伏すことが多くなり、私が「大丈夫ですか、深沢さん」と言うと、「大丈夫だよ、死ぬまで生きてるよ」と言い、私は不思議に安心しました。昔、日劇のミュージックホールでギターを弾いていたので歌もうまく、自分が死んだらお経も自分で唱えて、音楽も自分がつけたテープがあるからと言いました。最期は藤棚の下の椅子に座ったまま亡くなっていました。
森茉莉さんは、「パッパがねー」と鴎外が生きているかのようによく話してくれました。私の家で遊んで夜遅くなり、泊まるよう薦めると「泊まるわけにはいかない。あの部屋に帰ったら一行だけど小説がかけるのかもしれない。私はあとどの位あのアパートの部屋で過ごせる分らない」と言いました。私は二度と「泊まっていったら」と引き止めることはありませんでした。亡くなった時私はドイツにいました。デュッセルドルフより少し山の手の方で、とても保守的で人種差別がまだありました。「鴎外ほど誇り高い人はさぞ心が傷ついたでしょう」と噂をしていた時が、ちょうど茉莉さんが亡くなった時でした。誰もそばにいなくて新聞が外にたまっていて、茉莉さんが以前私の弟に自分がどのように死にたいか話していた通りになってしまいました。
去年の5月友達の矢川澄子さんが突然自殺しました。なぜーと心が痛みました。死亡通知が新聞に載った日に彼女のエッセー集が届きました。こんなに良い出版社からどんどん本が出る―普通からすれば恵まれているのに何てことをしたのと、私は半年間頭から離れませんでした。
人間はエゴイズムで生きると孤独になるが、人を助けることに喜びを感じたら孤独にならないと思います。私は美容院等どこに行っても若い女の子と友達になります。人間はどんな状況の中でも努力して幸せになります。
12月に詩人の吉原幸子さんが亡くなった。激しい性格で、初めて会った私をいきなり寿司屋に連れて行き、お酒を飲みながら自分がどんなに失恋したか、わあわあ泣きながら一部始終説明した。彼女は女性が好きで、私が初恋の人に似ていたらしく、ネコがじゃれるようにすっと寄って来て「かずこ、男と別れる時は言いなさい、私が慰謝料を払ってあげるから」とよく言いました。
1月に亡くなった多田智満子さんは知的で品位がありました。がんが肝臓に転移し、「死ぬというのは初体験ですからね」と小鳥が歌うように言いました。泰然として「式は好きなバラにする」と言って亡くなりました。
今鍼治療にかかっています。頭脳がどんどん明晰になっていくらしいのです。60近くなってから俳句を始めました。年とってから勉強すると、一を聞いても百を知るというように、ほんの一瞬にいろいろなことが理解でき、若い頃には見えなかったことが、見えてきます。今のところ、勉強することがエクスタシーです。人間らしく生きるにはいろいろなものが必要で、あらゆることを自然に受け入れて、年とった時にどういう死に方をするか、己の方向にいけたらいいですね。

白石かずこ(しらいしかずこ):詩人。1931年カナダ・バンクーバー生まれ。早稲田大学文学部卒業。
著書に『聖なる淫者の季節』(第21回賞受賞)『一艘のカヌー、未来へ戻る』(無限賞)『砂族』(歴程賞)『現われるものたちをして』
(第27回高見順賞)など詩集・エッセイ集多数。その詩は英語、仏語など20数カ国語に訳されており、各国で詩の朗読、公演を行っている

上田紀行さんの講演

日本で最初にいやしという言葉を言い出した一人です。当時大学院を出たての30歳位だった。今は何でもいやし…と言うが、いやしは一生の中で3回位いうものです。
乃木坂で生まれた。父は文学を志していたが、乃木坂の数百坪の土地を祖父に内緒で売り払い、それが発覚して勘当されその後、家に帰ってこなかった。母は俳優座の演劇の助手をやっていたが、離婚して翻訳家として私を育ててくれた。
母は大変強い人で、私は十代の後半で耐えられなくなった。完全に洗脳され、母に従属して何も無い自分がいやになり、二十歳の時に家族が解散することになった。私はいじいじとして生きる元気がなく、母のせいだと家でぐずぐずしていたら、母がじゃあ私が出て行くといってニューヨークのマンハッタンに移住してしまい、もう誰のせいにもできなくなった。母がいなくなりハッピーになるかと思ったが、やることが見つからずカウンセリングに通った。
大きかったのはインドや世界各地を旅行して人間にはこんなに沢山の生き方があると知ったことだった。バリ島では毎日神様にお供えすることで、心豊かになる。スリランカでは病人は村祭りで治す。人間が元気になるのはお金、学校の成績、肩書きではないと思った。それからいやしという言葉を使うようになった。
日本はこんな豊かなのに何で精神的に「生きている!」という感じを抱かせない人が多いのか。人間はひたすら我々を取り囲む環境を克服しようとする。時間や空間の拘束からいかに自由になるかが、今までの文明が行ってきたものだ。火は暗いところを明るくするという場所の拘束を解放し、電車は空間や時間から解放した。今の文明は他人にいかに迷惑をかけないかという方向に進んできた。でも昔はどこかに行くには隣のおばちゃんに子どもを預けるなど、他人に迷惑をかけなければいけない文化があった。隣のおばちゃんもそれが迷惑かというと喜びだったりもした。今は周りの人との繋がりがブチブチ切れていく。どんどん便利になり、周りの人も巻き込まずお金さえあれば一人で何でも出来るという時に、「何で私がここにいるのかわからない、一体私は誰?」となる。
今教育は50点より80点の方がいいという教育をやっている。絵を描いていた方が生き生きとして才能も発揮する子を塾に押し込む。点数が上がった頃には生きる元気を失って、何をやったらよいか分からない子が生まれる。なお悪いことに昔は点数を上げて良い企業にいけば幸せになったが、今は違う。それでも点数をあげようとする。やりたくないことをやらせて命の灯を消してはいけない。
文明は時間・空間を克服しようと便利になってきた。でもそれは本当に我々が自由になって命の灯を燃やしていけることを目指した。ところがそれをやりすぎてしまい、ここまでくれば本当に生きること死ぬことを考える時期になっているにも拘らず、収入増やせとか点数取れと言い続けている。そろそろ考えた方がよいのではないでしょうか。
ホスピスの先生が「命があと1年という時何をやりますか」と言った。思うことがあればむしろ今始めてもいいのではないでしょうか。始められることが豊かさに繋がると思います。

上田紀行(うえだのりゆき):文化人類学者、東京工業大学助教授(大学院社会理工学研究科、価値システム専攻)。
昭和33年生まれ。東京大学大学院博士課程終了。愛媛大助教授をへて、96年「文理を融合し21世紀のネオ・リーダーを育成する。」との理念の下に東工大に新設された大学院の初代スタッフになる。
86年から2年半スリランカで伝統医療「悪魔祓い」と農村活性化運動「サルホダヤ」のフィールドワークを行う。帰国後、人と地球の「癒し」をキーワードに、一人ひとりの活性化と地球大の改革を目指す新しいムーブメントを提唱。
精神世界と社会運動の融合を予見した『覚醒のネットワーク』は90年代の指針を示す書として評判になる。「朝まで生テレビ」「NHKスペシャル」等の多数のテレビ出演で、若い世代を代表する論客として活躍するほか
、各地で公演、ワークショップを多く行っており、ユーモア溢れる明快な語り口が好評を博している。
主な著書、『覚醒のネットワーク』『スリランカの悪魔祓い-イメージと癒しのコスモロジー』『宗教クライシス』『日本型システムの終焉』など多数。

パネルディスカッション

上田:死んだ人に恥ずかしくない人生を送るというのは重要なのではないか。NHKの番組で高知の過疎の村に行った時だ。先祖代々の棚田が荒れ果ててしまい、農協のある青年がここで野菜を作ろうと言った。その野菜に名前を入れ直営所に出すと、買った人から電話がかかってきたりして村がどんどん活性化した。僕は80歳の元郵便局長のおじいさんに、「一度は荒れ果てた田んぼがもう一度きれいに復活したのはご先祖様の供養になりますね」と言った途端、その方は「んーー」といったきりしゃべれなくなってしまった。
白石:ユーゴスラビアにいる親友から最初の空襲があった時電話がかかってきた。私は、「とにかく深呼吸しな
さい、腹式呼吸よ!」とそれしか言えなかった。彼女と同じマンションの家族は、子どもが隣家に遊びに行った時爆弾が落ち母親一人生き残り、その3日後に戦争が終わった。残酷ですねー。私に出来るのはそういう世の中にしてはいけないこと、痛みを我が痛みとして生き続けることー。
山野井:僕が死んだらクヌギを1本植え、その木にカブトムシやスズメバチが集まればいいと常々思っている。人間だけでなく昆虫や小動物もいとおしい。僕は十分生きたから。僕の命の代わりにこの苦しんでいるネズミを助けて欲しいと思うことがよくある。
住職:仏教の教えでは対比を基本的に言わない。対比の中で自分を比べると、つまらぬと思い込んでしまう。私は小さい時いじめられた。いやだったが、それがいろいろなことをわからせてくれる原因になり、私の人生の中ではプラスになっている。
白石:東京の空襲で家の裏庭に爆弾が落ち、疎開して田舎の女学校に行った。運動場の真中に立たされ、ワーッと泣くとセレモニーは終わるが、私は泣かなかった。ニックネームは武蔵だった。リンチは1ヵ月続き、そのことに私は堪えた。グループで人をいじめるな、戦う時は1対1で。偏屈なくらい私は何か言いたい時は一人でやる。責任は私のところに返ってくる。
上田:母が離婚して勤めに行き、お手伝いさんと2人になると「ママと私とどっちが好き?」と聞く。「ママ」というとガーンと蹴られて泣いている記憶がある。「おいしい」というと喜ぶので一口食べるごとに「おいしい」という子になっていた。それが暴力だとは気が付かず、かわいがられることはうれしかった。それはそれからの僕の人格形成に暗い影を落とした。一番近しい人にものすごく気に入られたいと―。デートで女の子が黙ると「ねえ、おこってない?」とか「さっきの一言がいけなかったの?」と聞くと逆に怒られた。今となればいろいろ屈折した人の話が聞けたり、話を聞いてくれてありがとうといわれ、役に立っている。人生の後半になるとどんな辛い事からでも学べる所があり、それが人の個性だと思う。
山野井:僕は登るために生きている。今回凍傷で指を10本切断した。縫わずそのままという最新の方法で、消毒は激痛だが、これは又面白い体験をしているなと思う。
上田:人の話を聞くことが大切だ。若者が自分の言うことを心から聞いてもらう体験があれば暴力をふるわないと思う。私の心の声を聞き届けるとか、あなたの存在を聞くと言う意味での深いコミュニケーション量を増やしていくのは重要だ。(おわり)