「死を想え Memento mori」  太田 治子(おおた はるこ)

 今でも太宰治の子どもといわれるのは寂しいですね。ああ、この年になってもまだそういう肩書が付いて回るのか

、と。

 母が死んで17年たちます。私は母の子として母一人の手で育てられた誇りがある。父は一小説家として人間の弱

さ優しさをこんなにもはっきり書いた人はいないと尊敬するが、一人の人間としていかがなものかと思う所がありま

す。でも好きな人です。

 私は明治学院大学の英文科でグレアムグリーンというカソリックの作家と出会った。その「21の短編」の中の「双子

」――テレパシーでお互いの気持ちがわかる二人だったが、最期の死の瞬間はわからなかった。――双子であって

も母と娘、どんなに愛し合っても孤独なんだと母が死んだ時感じました。私はこの世で母を一番愛してた。実は今も

そうではないでしょうか。娘が10歳の時から何でも話しました。かつては母と話すことで、今は娘と話すことで救われ

るんですね。娘に母のことを話せるようになったのは15年以上の月日が流れたからかもしれません。年月が一番癒

してくれるんですね。

 母は34歳で未婚の母で私を産みました。倉庫会社の食堂で賄いをして女手一つで私を大学に入れてくれた。妻子

がいる人の子を産んだことを母は罪深く思い反省はしていたが、その一方で、人道には背いたが天道には背かなか

ったといった。好きな人の子を生み育てる、自分の心に偽らず自分がいったん信じた道を貫いた母を私は誇りに思っ

ています。

 69歳で肝臓がんで母は死にました。私が中学一年の時骨折して輸血が原因でC型肝炎になったが気がつかなか

った。我慢強い人でしたが、だるそうに横になっていたこともあった。入院した時、正直私はほっとした。慢性肝炎なら

死ぬような病気と思わなかったから、こういう形で別居できたのは大いなる喜びだった。父は私が7カ月の時空に逝

った。母一人子一人でずっと大きくなった。母は私に出て行きなさいと言ったが、私も母と一緒に居たかったし母も私

と暮らすことが一番心安らぐことでした。

 手術を薦めたのは私でした。母は医者の娘でしたが、手術をしたら私はアウトよ、と言った。医者からは手術をしな

ければあと2年といわれた。なぜ手術を薦めたかというとそれは母の体を思うより私の自己愛でした。死をいつも間近

に感じている母を見る自信がなかった。怖かった。増々縁が遠ざかる、いやだなと思った。もちろん母には元気にな

ってほしかった。

 「手術は失敗だった」が母の最期の一言でした。子どもの時のように母の手を握り続けた。母と一緒なのだと安らぎ

のようなものを感じた不思議な2週間でした。

 母が死んだ時、母と生きてきた私は死んだという感じでした。母の死を認めたくない気持ちがあり、お骨を叔父の

家に納骨の日まで預かってもらった。母と私はお互い寝顔を見るのが恥ずかしいと本棚を衝立がわりにしていたが、

死んでも3年間とることができなかった。母が生きていた時のままに部屋の中をすることで、心のバランスをとって

いました。

 一週間に一度お墓に行き声に出して報告しました。母がマリア様であり神様になったんですね。人間は死んでも

一緒に生きている、その気持ちで救われ支えられます。死を想うことは愛を想うこと、これからも母と共に生きてい

きたいと思います

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 太田治子さん  小説家、父は太宰治、主な著書に「母の万年筆」「天使と悪魔」など。54歳。

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